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街の遺伝子~遺したいもの 2 (河崎世古)    海住恒幸

街の遺伝子2

河崎世古(浦之橋商店街) その一 

 どうしてここが河崎? 

 伊勢市常磐2丁目の筋向(すじかい)橋の交差点で、道が二手に分かれる。一方が外宮へ向かう参宮街道で、もう一方は河崎世古という。浦之橋商店街といった方が知られているだろう。

 でも、不思議だ。

 世古と言えば、家と家の間を触手のように延びる小路のことなのに、河崎世古に限って、道路の両脇には歩道やアーケードまで備わっている。直線にしてわずか300メートルの道の脇には、お餅屋さんにフルーツショップ、お茶屋さん、食堂、食料品や雑貨の店、衣料品店、病院や医院までそろっている。地元の小学生が夏休みの自由研究で調べた資料によると、往時には50軒もあったという街である。伊勢で言う世古の定義からすれば大きくずれているではないか。

 もう一つは、ここは宮川に近い街で、勢田川河口に開かれた蔵の街・河崎は何キロも離れている。それなのになぜ、河崎世古と呼ぶのか。
 こんな二つの謎を解き明かしたいという思いで、この街を歩いた。
 世古と呼ぶ理由について、先の小学生(今は中学生)のお母さんが、さらりと言ってのけた。「表町の裏だからでしょう。表町とは外宮に向かう参宮街道のこと。ここはオモテに見えても参宮道からすれば実はウラ」。なるほど、うまい説明だ。「なら、ここは裏町と呼ぶの?」と聞くと、仲町と言うのが正解だそう。

 さて、もう一つの疑問である、なぜ河崎世古か、という点についてだ。江戸期を中心に経済的に大いに潤った伊勢に物資を供給する問屋街であった河崎につながる道がここだったのがその理由らしい。外宮に向かう参宮客の街道とは別に、地元で商売をする人の商品の行き来や買い物客がこの世古をひっきりなしに行き来していたようだ。隣が夜店や七夕でにぎわう高柳、その向こうは伊勢の目抜き通りとして栄えた銀座新道、そして、河崎へと商いの道だった。
 天保生まれ(江戸末期)のおばあちゃんが明治初めに始めた油屋さんが、その後、お餅屋さんとなった島地屋さんの、現在のおばあちゃんは、「息子は小さいとき、『なんでうちはこんなに忙しいの? 僕はゼッタイこんな仕事はせん』と言い張った」と懐かしむ。昭和40年生まれの息子さんは、子どものころの言った通り、サラリーマンになった。けれど、息子さんの奥さんが、80歳のおばあちゃんとともに店を切り盛りする。
 どうやら、この街には商売の女神様が住んでいる。続きのお話は次号で。
                           (つづく)
 
【写真】
餅屋さんを始めた当時からの味、さわ餅が人気の島地屋さんと、おばあちゃん=伊勢市常磐2丁目の裏之橋商店街で
 
お子さんが地元の街のことを調べた自由研究を見せてくれた若女将

300メートルの河崎世古に餅屋さんなどけっこう何でもそろっている浦之橋商店街

 
 
 
 
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伊勢じゃーなる

Author:伊勢じゃーなる
「伊勢じゃーなる」は、伊勢を愛し、伊勢をいま以上に住みやすいところにしたいと願う市民が発案しました。 自分たちが知りたい情報を、自分たちの手で集め、自分たちで発信していく。 地域、コミュニティのありかたを、ひとまかせにせず、自分たちで考え創造していく。 自主的に社会生活を営むことのできる市民になるためには、判断材料となる正確な情報が必要です。 既存メディアが明らかにしようとしない事実を、ミドルメディアの力をかりて伝えていくのも、特徴のひとつです。
政治を考える一助となるよう願っています。

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