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街の遺伝子~遺したいもの~ 1 (筋向橋)    海住恒幸

伊勢・山田の地図
 2014年 伊勢じゃーなる 掲載
         (取材・文・写真=海住恒幸)
 
 街の遺伝子~遺したいもの~
筋向橋(伊勢市常磐2丁目)すじかいばし


筋向橋は不思議な風景だ。
道路に擬宝珠(ぎぼし)の付いた欄干はあるのに橋はない。
だが、ここにはかつては、東京の日本橋、京都の三条大橋とともに、日本三橋とされる名所だった。

筋向橋の下には宮川の支流・清川が流れている。筋向橋の前で明治25年(1892年)から商いを続けている紙問屋「角谷紙店」。この家に生まれた西村宜剛さんの世代は、ここに橋があった当時の風景を知らない。宜剛さんが生まれた昭和45年(1970年)に川がふたされ、いまのような暗渠(あんきょ)となったからだ。
三重県内を縦横に伊勢へとつないだ旧街道が、最終、伊勢本街道と伊勢街道という2つとなってそれぞれが別々に宮川を渡り、ゴールの伊勢神宮に向かって合流する地点はどこなのか。それを知りたいと思って、たどり着いたのが筋向橋だ。しかし、そこに橋はなかった。
けれど、がっかりしたわけではない。現在、クルマが盛んに行き過ぎる交差点の名前ともなっている「筋向橋」であるが、江戸時代の擬宝珠を付けた欄干(欄干自体はコンクリート製)だけが残る風景は、そうめったにあるわけでない。街の伝統的風景は残したいが、保全されていくのはなかなか難しい。そこでわたしがよく思うのは、せめてここにはかつて何があったかを示す「街の遺伝子」(かたちや色彩、木などを含む)だけでもほんものが残されていけば、たとえそれは点であっても、点と点がつながれば、イメージとしての街の風景はある程度であるが保全、継承されていく。
歴史をさかのぼれば、かつては太鼓橋(本橋)と仮屋橋(小橋)で一対の橋があった。現在、宮川に架かる度会橋をはさんで上流と下流のところにそれぞれあった渡しを通った伊勢本街道と伊勢街道が、この橋でそれぞれ街道としての役割を終え、一つの道となって外宮、そして内宮へ向かう。橋は結界の役割を果たし、ここからいよいよ、お伊勢さんという聖域に入ることを意味したらしい。遷宮の御木曳(おきひき)で、外宮の北御角(きたみかど)を曲がる際、エンヤ曳と言って、曳き手たちが力を振り絞るが、本来は、筋向橋の太鼓橋を渡るための技であったようだ。
街道としての伊勢本街道と伊勢道は、ここ筋向橋がゴールだ。江戸・日本橋と伊勢との距離114里(約456キロ)は、この橋を起点に測定されたという。
 
関連年表
1849年(嘉永2年) 筋向橋欄干に擬宝珠
1897年(明治30年)国鉄の筋向橋駅(現・山田上口駅)開業
1915年(大正4年) 太鼓橋が平橋に
1928年(昭和3年) コンクリート橋に
1970年(昭和45年) 暗渠となり、橋としての機能は失われた



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伊勢じゃーなる

Author:伊勢じゃーなる
「伊勢じゃーなる」は、伊勢を愛し、伊勢をいま以上に住みやすいところにしたいと願う市民が発案しました。 自分たちが知りたい情報を、自分たちの手で集め、自分たちで発信していく。 地域、コミュニティのありかたを、ひとまかせにせず、自分たちで考え創造していく。 自主的に社会生活を営むことのできる市民になるためには、判断材料となる正確な情報が必要です。 既存メディアが明らかにしようとしない事実を、ミドルメディアの力をかりて伝えていくのも、特徴のひとつです。
政治を考える一助となるよう願っています。

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