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街の遺伝子(5) 伊勢・山田は、大湿原の上に出来た都市  取材・文 海住恒幸

2014年11月 
「伊勢じゃーなる」31号  1面掲載

街の遺伝子(5) 大湿原の上に出来た都市


江戸と伊勢の距離114里(約456キロ)を測る起点であった「筋向(すじかい)橋」は1970年(昭和45年)に橋ではなくなった。宮川から勢田川に流れる宮川の分流・清川(きよかわ)の流れのほとんどが暗渠となり、道路上の欄干だけがここに橋があったことを示している。しかし、もとの流れは、伊勢・外宮の街(山田)の下に脈々と息づいている。清川は、大湿原の上に出来た都市・伊勢の原風景の名残と言えるのかもしれない。

 清川は、筋向橋のたもとから始まる浦之橋商店街の歩道下を通り、清川稲荷大明神とも呼ばれる「今社(いまのやしろ)」で左(海のほう)へ直角に向きを変え、旧国道23号(現在の県道鳥羽松阪線)で今度は道路に沿うように右に90度転換。新道商店街の道路脇の駐車場下を通って、伊勢市駅付近から河崎の方角に抜け、勢田川へ合流する。

 現在、清川の流れが見えるのは、流水をたくわえる「井場(いば)」に由来する今(いま)社の脇ぐらいになったが、1930年(昭和5年)に作成された地図にははっきりと川の流れを確認することができる。

 清川と同じように宮川の分流で伊勢のまちなかを横切る代表的な川は豊川で、外宮の火除橋をへて伊勢市役所のところにその名残がある。

 伊勢は古来、「水のまち」だった。

暴れ川・宮川の氾濫で幾筋にも水流があったことはよく知られるところだ。外宮の正宮前の池ももともとは川だったが地震でせき止められて池になったと言われている。中島、浦口、吹上、二俣、岩渕、河崎、船江と、伊勢の町の名前には水に関わるものがとても多い。

古代の伊勢について、まちづくりブック伊勢制作委員会刊の『まちづくりブック伊勢』(学芸出版社刊、2000年)には、こう書かれている。

「宮川本流に加え、何本もの支流が蛇行して流れる湿原の中に集落があったのですから、洪水が起きるたびにいくつもの集落が水の流れの中に消えたことでしょう。
それでも人々は、再び家をつくり、集落を形成してきたのですから、そのバイタリティーは驚くばかりです。

それも宮川がもたらす水と肥沃な大地、そして貴重な食料である魚があったからこそかもしれません。その意味では宮川は、人々の生命をも脅かす危険な川であると同時に、恵みをもたらす川でもあったのです。このような古代の伊勢に鎮座したのが、神宮です」。

 中世には既に自治都市となり自治権を獲得していた伊勢は、豊臣秀吉の太閤検地すら免れたというほどの強い都市となっていたそうですが、水との闘いは続いた。江戸時代、歴代の山田奉行最大の公共事業は宮川の堤防造りであったことだろう。その流れが伊勢の街に入らないようにする工夫は、水はね堤(突出し堤)として今もある。宮川堤防の改修はいまなお行われているが、水はね堤は歴史的土木遺産としてそのまま残されるという。

 清川の流れは、宮川の水と上手に付き合ってきた人々の証しでもある。伊勢の街の成り立ちとも深く関わる川だ。
                                                      (つづく)
                                                       


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街の遺伝子(その四) 河崎世古から今社  海住恒幸

伊勢じゃーなる1面 2014年     取材・文 海住恒幸

街の遺伝子(その四) 河崎世古から今社

伊勢街道、初瀬街道、伊勢本街道。東から西から伊勢を目指す人々が通った参宮街道は、三重県内を縦横に走る。やがてこれらの街道が一つに合流する。その場所が筋向橋。そこを起点に小さな“ものがたり”を掘り起こそうと始めたのがこの連載です。ところが、筋向橋に行ってみると、そこを起点として、参宮街道とはVの字型に離れていくもう1本の道のことが気になりました。

その道は「河崎世古」と呼ばれているのです。

「どうして河崎なのだろう。そうした疑問から、伊勢の中のショート・トリップ(小さな旅)が始まりました。

河崎は、伊勢の人なら皆ご存じの伊勢の台所。江戸時代、参宮客でにぎわう伊勢で必要な物資は海に通じる河崎で荷揚げされ伊勢の街に入ったということで、その河崎と行き来する商いの道が河崎世古です。端から端までわずか300メートルしかない浦之橋商店街のある一画と河崎世古は重なります。

それぞれの地域には、世代を超えて受け継がれていくべき地域の特徴(遺伝子)があります。それぞれの街ではその特徴を生かしたまちづくりをしていけば、たとえそれが失敗に終わってもその蓄積は必ずいつか甦るときがくると考えています。
わたしが、この街のことを聞き書きして気づいたのは、「水」というキーワードです。

筋向橋は、道路だけで川のない橋ですが、その下には清流・宮川の分流である清川(きよかわ)が流れ、河崎世古の商店街と並走しています。商店街にもしっかり「浦之橋」という名前が付いています。それに、この世古が向かう先は河崎です。
それにしても、気になる存在は清川です。

街中、暗渠(あんきょ)となっているので、清川の流れを見ることのできる場所はごく限られています。浦之橋商店街の歩道の下を流れているそうです。これが、京都の高瀬川のように一軒一軒の建物の脇と道路の間に流れがあったらどんなに良いだろう、その水辺空間をうまく見せるまちづくりが出来たらどんなにか良いだろうと思いながら、街を歩きました。それこそ、清川は、街のDNAです。
清川の流れを探し求め、浦之橋商店街と一本の道路をはさむ高柳商店街に出ました。アーケードのある大きな商店街で、夏の夜店は伊勢の名物です。アーケードの入り口の脇にこんもりと「今社(いまのやしろ)」という名の神社があります。赤い鳥居に「清川稲荷大明神」と書かれていました。「今社」の「今」とは、清川に面した地名「井庭(いば)」、または、流水をたくわえる「井場」に由来するということです。

「水」のDNAは、こんなところに受け継がれていました。清川は「今社」さんのこんもりとした森の脇に顔をのぞかせていました。
 (つづく)

街の遺伝子~遺したいもの 3 (河崎世古 その二) 海住恒幸

街の遺伝子3

河崎世古(浦之橋商店街) その二 

 商いのみち 河崎世古
「ぎゅーとら」惣菜部門の発祥秘話


 勢田川河口に開けた問屋の街・河崎との行き来が活発だったことからそう呼ばれた河崎世古。「河崎世古」という呼び名は知らなくても、浦之橋商店街と言えば伊勢の人にはわかる。道幅は広いが、端から端まで300メートルしかない小さな商店街。「浦之橋で商売を始めた人はどこの街へ行っても成功する」。明治初めからの暖簾「島地屋」の女将さんは、結婚してこの街にやって来たころ、身内からそう聞かされたのを覚えている。大八車が交差するのがやっとの道に人がごった返した。この街の店に奉公したのち独立し、自分の料理屋などを持った人も多かった。商いが勢いづいた街だ。
 こんな街の中にあってなお女将さんの目に焼き付いた人がいる。株式会社「ぎゅーとら」の前身「精肉店うし虎(とら)」を創業した清水虎吉さんの長女、清水淑子さん(80)だ。
 「うし虎」は伊勢出身の虎吉さんが昭和4年に大阪で始めた。が、10年で故郷伊勢に移した。伊勢市駅や宇治山田駅周辺でいくつかの小さな精肉店を立ち上げたのち、昭和33年に曽根にスーパー第1号店を出した。同時期に、浦之橋商店街の一角に、淑子さんが取り仕切る惣菜屋さんを開業させた。女将さんが嫁いできたのもこのころ。同じぐらいの年齢の働き者の女性。
 浦之橋の店は、朝8時からお客は引きも切らなかった。小さな店だったが、女性の従業員は15人を数えた。人気のコロッケだけでなく、お好み焼き、トンカツ、サラダ、いまは懐かしいびっくりサイズの餃子や「虎まん」という饅頭もあった。その店は評判を呼び、「ぎゅーとら」の惣菜事業の本部として発展していく。現代の「ぎゅーとら」の定番商品でもあるコロッケは、当時、淑子さんらが直接揚げたところから始まる。
伊勢の人々からは「ウシトラ」ではなく、「ギュウトラ」と呼んだことから、社名も変えた。
数年前に会社を引退した淑子さんの自宅は、浦之橋から遠くはない。岩崎すみ子さん(71)ら昭和30年代前半からいっしょに仕事をしてきた元従業員の女性たちが毎日のようにやってくる。「みんなに助けてもらったなあ」。昔話をすればたちまち自分たちの若いころの思い出がよみがえる。集まればにぎやかだ。
 淑子さんは、昔話だけでなく、今も見据える。数年前に引退したというのに、そのパワーを慕って若い男性社員たちも、集まってくる。
 「コロッケを揚げて『50売れた』、『100売れた』と頑張った時代があるから、いま1万個になっとるんやに」。若い社員にパワーを注入していく。
 創業者の子どもとしては、上に兄2人、下に弟が1人いる。きょうだいみんなで会社を支えた。気質としては父親に一番似ているのはきょうだいの中でただ一人の女性、淑子さんのようだ。東京でファッションを学ぶ学校に通っていたとき、「戻ってきて兄といっしょに店を手伝え」と言われなければ、もっと違う人生だったかもしれない。帰ってきて、県内に26の店を持つ「ぎゅーとら」チェーンの惣菜部門の礎を作った。スーパー「ぎゅーとら」の一番の強みは惣菜部門だと言われる。淑子さんが果たした功績が大きい。

【写真】
創業者の長女・淑子さんらが始めたコロッケなど揚げ物はいまも「ぎゅーとら」の人気商品

淑子さんがいた総菜部門の店があったあたり=浦之橋商店街

街の遺伝子~遺したいもの 2 (河崎世古)    海住恒幸

街の遺伝子2

河崎世古(浦之橋商店街) その一 

 どうしてここが河崎? 

 伊勢市常磐2丁目の筋向(すじかい)橋の交差点で、道が二手に分かれる。一方が外宮へ向かう参宮街道で、もう一方は河崎世古という。浦之橋商店街といった方が知られているだろう。

 でも、不思議だ。

 世古と言えば、家と家の間を触手のように延びる小路のことなのに、河崎世古に限って、道路の両脇には歩道やアーケードまで備わっている。直線にしてわずか300メートルの道の脇には、お餅屋さんにフルーツショップ、お茶屋さん、食堂、食料品や雑貨の店、衣料品店、病院や医院までそろっている。地元の小学生が夏休みの自由研究で調べた資料によると、往時には50軒もあったという街である。伊勢で言う世古の定義からすれば大きくずれているではないか。

 もう一つは、ここは宮川に近い街で、勢田川河口に開かれた蔵の街・河崎は何キロも離れている。それなのになぜ、河崎世古と呼ぶのか。
 こんな二つの謎を解き明かしたいという思いで、この街を歩いた。
 世古と呼ぶ理由について、先の小学生(今は中学生)のお母さんが、さらりと言ってのけた。「表町の裏だからでしょう。表町とは外宮に向かう参宮街道のこと。ここはオモテに見えても参宮道からすれば実はウラ」。なるほど、うまい説明だ。「なら、ここは裏町と呼ぶの?」と聞くと、仲町と言うのが正解だそう。

 さて、もう一つの疑問である、なぜ河崎世古か、という点についてだ。江戸期を中心に経済的に大いに潤った伊勢に物資を供給する問屋街であった河崎につながる道がここだったのがその理由らしい。外宮に向かう参宮客の街道とは別に、地元で商売をする人の商品の行き来や買い物客がこの世古をひっきりなしに行き来していたようだ。隣が夜店や七夕でにぎわう高柳、その向こうは伊勢の目抜き通りとして栄えた銀座新道、そして、河崎へと商いの道だった。
 天保生まれ(江戸末期)のおばあちゃんが明治初めに始めた油屋さんが、その後、お餅屋さんとなった島地屋さんの、現在のおばあちゃんは、「息子は小さいとき、『なんでうちはこんなに忙しいの? 僕はゼッタイこんな仕事はせん』と言い張った」と懐かしむ。昭和40年生まれの息子さんは、子どものころの言った通り、サラリーマンになった。けれど、息子さんの奥さんが、80歳のおばあちゃんとともに店を切り盛りする。
 どうやら、この街には商売の女神様が住んでいる。続きのお話は次号で。
                           (つづく)
 
【写真】
餅屋さんを始めた当時からの味、さわ餅が人気の島地屋さんと、おばあちゃん=伊勢市常磐2丁目の裏之橋商店街で
 
お子さんが地元の街のことを調べた自由研究を見せてくれた若女将

300メートルの河崎世古に餅屋さんなどけっこう何でもそろっている浦之橋商店街

 
 
 
 

街の遺伝子~遺したいもの~ 1 (筋向橋)    海住恒幸

伊勢・山田の地図
 2014年 伊勢じゃーなる 掲載
         (取材・文・写真=海住恒幸)
 
 街の遺伝子~遺したいもの~
筋向橋(伊勢市常磐2丁目)すじかいばし


筋向橋は不思議な風景だ。
道路に擬宝珠(ぎぼし)の付いた欄干はあるのに橋はない。
だが、ここにはかつては、東京の日本橋、京都の三条大橋とともに、日本三橋とされる名所だった。

筋向橋の下には宮川の支流・清川が流れている。筋向橋の前で明治25年(1892年)から商いを続けている紙問屋「角谷紙店」。この家に生まれた西村宜剛さんの世代は、ここに橋があった当時の風景を知らない。宜剛さんが生まれた昭和45年(1970年)に川がふたされ、いまのような暗渠(あんきょ)となったからだ。
三重県内を縦横に伊勢へとつないだ旧街道が、最終、伊勢本街道と伊勢街道という2つとなってそれぞれが別々に宮川を渡り、ゴールの伊勢神宮に向かって合流する地点はどこなのか。それを知りたいと思って、たどり着いたのが筋向橋だ。しかし、そこに橋はなかった。
けれど、がっかりしたわけではない。現在、クルマが盛んに行き過ぎる交差点の名前ともなっている「筋向橋」であるが、江戸時代の擬宝珠を付けた欄干(欄干自体はコンクリート製)だけが残る風景は、そうめったにあるわけでない。街の伝統的風景は残したいが、保全されていくのはなかなか難しい。そこでわたしがよく思うのは、せめてここにはかつて何があったかを示す「街の遺伝子」(かたちや色彩、木などを含む)だけでもほんものが残されていけば、たとえそれは点であっても、点と点がつながれば、イメージとしての街の風景はある程度であるが保全、継承されていく。
歴史をさかのぼれば、かつては太鼓橋(本橋)と仮屋橋(小橋)で一対の橋があった。現在、宮川に架かる度会橋をはさんで上流と下流のところにそれぞれあった渡しを通った伊勢本街道と伊勢街道が、この橋でそれぞれ街道としての役割を終え、一つの道となって外宮、そして内宮へ向かう。橋は結界の役割を果たし、ここからいよいよ、お伊勢さんという聖域に入ることを意味したらしい。遷宮の御木曳(おきひき)で、外宮の北御角(きたみかど)を曲がる際、エンヤ曳と言って、曳き手たちが力を振り絞るが、本来は、筋向橋の太鼓橋を渡るための技であったようだ。
街道としての伊勢本街道と伊勢道は、ここ筋向橋がゴールだ。江戸・日本橋と伊勢との距離114里(約456キロ)は、この橋を起点に測定されたという。
 
関連年表
1849年(嘉永2年) 筋向橋欄干に擬宝珠
1897年(明治30年)国鉄の筋向橋駅(現・山田上口駅)開業
1915年(大正4年) 太鼓橋が平橋に
1928年(昭和3年) コンクリート橋に
1970年(昭和45年) 暗渠となり、橋としての機能は失われた



プロフィール

伊勢じゃーなる

Author:伊勢じゃーなる
「伊勢じゃーなる」は、伊勢を愛し、伊勢をいま以上に住みやすいところにしたいと願う市民が発案しました。 自分たちが知りたい情報を、自分たちの手で集め、自分たちで発信していく。 地域、コミュニティのありかたを、ひとまかせにせず、自分たちで考え創造していく。 自主的に社会生活を営むことのできる市民になるためには、判断材料となる正確な情報が必要です。 既存メディアが明らかにしようとしない事実を、ミドルメディアの力をかりて伝えていくのも、特徴のひとつです。
政治を考える一助となるよう願っています。

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